生きる事と生かされる事
ブログを更新するのは久々である。
つい少し前に祖母が他界した。
92まで生きたのだから、大往生である。
葬式は孫の祭りと言う言葉があるが、嘘っぱちもいいところだ。
私の父母共に、現在精神病院に入院中である。
となると孫である私が喪主になる。
田舎の葬式は、色々としきたりもあって面倒極まりない。
親戚を不愉快にさせながらも、何とか全てを終わらせられた。
その日は、火葬場まで行く霊柩車の窓から大きな雲が流れて行くのをぼんやり見ていた記憶しか残っていない。
悲しい気持ちなんてなくて、むしろ清々しかった。
私の心は、窓から見える大きな雲の上あたりにあって、鼻歌なんぞ歌ってみたりしていた。
亡くなる前祖母は、体に管ばっかくっつけられ、まるで『老人Z』みたくなっていたもんだから、あーこれで自由になったのだなと思った。
この歳になると人が死んでいく。
人は死からは逃れられない。
私もいつか死ぬ。これだけはわかっているのに、いつかはわからない。
祖母みたいに、本人は望んでいないかもしれないのに、何十年と意思の疎通もできぬまま生かされ続けることを、なんと捉えればいいのだろう。
一本の映画を思い浮かべる。
とっても美しくて悲しい映画である。
『愛、アムール』(2013年/フランス・ドイツ・オーストリア/監督:ミヒャエル・ハネケ)
ハネケ映画は、大体ろくなことにはならないか、非常にしんどいのである。
老夫婦の愛と、尊厳がテーマになっているが、他人ごとではない。
老々介護は、日本でも社会問題となっている。
この先超高齢社会を迎え、寿命だけはガンガン延ばされているのに、健康寿命は延びていない。
「生きている」ことと、ただ「生かされている」こととはまた別の話なのである。
私には家族がいる。どんなに好きでも、好きなだけでは介護はできない。
けれど日本では、自由に死ぬことは許されてはいない。どんなに私がボケて自分を失っても生かされ続けるのである。
それを生きていると捉えるか捉えないかは、人それぞれである。
私の父はつい先日、大学病院でゆっくり筋力が落ちていくパーキンソン病の一種である難病だと言うことが分かった。
すでに食べ物を飲み込む力が弱くなっており、離乳食の様な食事をしている。ほんの数年前までは、自由気ままに遊びまくっていた人なのに。
もしもの時は、緩やかだが確実に近づいている。
思えば父親は心底ろくでなしのダメ人間だったなぁ。
でも嫌いじゃないから、色んな事が割り切れない。
私は父親に遊びに連れて行ってもらった事なんてほとんどない。
けれどたまーにどこかに連れて行ってくれた。
父は車の中でよく音楽をかけていた。子供だった私は、後部座席で寝転んで父が鼻歌交じりに『JOANNNA』を歌っているのを聞いていた。
今夜は父がよく聞いていた曲をお休み前に。
『JOANNA』杉山清貴&オメガトライブ
もう一曲は何となく、夜聴きたくなる曲
良い夢を。