学生の頃から寺山修司の詩や映像作品、舞台が好きだった。
寺山修司を知るまでは、私は超現実主義者で、可愛げのない(今もだが)憎たらしい子供であった。
目で見えるものしか信じないという視野の狭さと、想像力のなさ。
目で見えるものというより、都合良く見たいものだけ見て、見たくないものは見ないふりをしてきたのかもしれない。
正直寺山ワールドは、どちらかと言えば、目では見えない(または、意識的に見ようとしていない)部分が描かれている事が多い。
一冊の詩集が、私の何もかもをひっくり返した挙句、頭に一発食らわせてきたのだ。
その瞬間から、私の見ている世界の色が変わったと言っても過言ではない。
寺山修司の映画で『書を捨てよ町へ出よう』(1971年日本/監督:寺山修司)と言う映画がある。
私たちは普段映画を観ていても、映画の中で起こることを実体験しているわけではない。例えば1975年の、スティーヴン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』は、映画の中でサメが人を襲いまくる。しかしいくら人を襲っていても、画面からサメが出てくるわけでも、私たちが画面の中に入れるわけでもない。私たちは常に安全が約束された場所で『ジョーズ』を観ているのだ。人が食いちぎられる様は確かに恐ろしいが、実際私たちが食いちぎられる心配はない。
ただ、常に傍観者でいられると思ったら大間違いなのである。
この映画は、冒頭から一人の青年(観られる側)が私たちに(観ている側)を挑発しはじめる所からはじまる。
観ている方は面食らうのである。
急にスクリーンの中と外の距離が縮まる。境界が曖昧になる。
更に、青年は「俺の名前は・・・」を連呼する。俺の名前は・・・の後には観ている私たちの名前が当てはまるのではないだろうか。この物語の主人公は、私で貴方なのである。
主人公は(安全な場所で傍観者気取りの)私たちのいる(スクリーンの)外の世界に入り込もうとする。
そしてヒョロヒョロの頼りない主人公の青年は、妹が自分の先輩(がたいの良いサッカー部)たちに犯されても何もできない弱虫なのである。大切な人も守れず、おどけたフリをして、妹を笑わせようとする事しかできない。
劇中、コカ・コーラの瓶の中で飼われたトカゲが成長するが、「トカゲは大きくなっても瓶を割って出てくる力もないだろう!」と言うシーンがある。コカ・コーラは他国、トカゲは日本を現すメタファーなのである。
日本は戦後急成長を果たしても、所詮瓶の中のトカゲなのである。瓶を割って出れる筈なのに。
そう考えればサッカー部の男たちが何を現しているのか、おのずと想像がつく。
この物語の主人公は、私たち日本人なのである。
映画が終われば、白いスクリーンが残るだけである。しかし映画を観終わった私たちの物語は続いていく。
映画の中の人物たちはいつも同じところで笑い、泣く。永遠に歳を取ることもない。
でも、私たちはどうだろうか。私たちは歳を取り、いつか終わりを迎える。
私たちは、私たちの物語を生きる為に、時には書を捨て、町に出ることも必要なのである。
愛する映画や本は沢山ある。
気持ちが救われた事もある。
けれど、見た(観た)だけでは経験した事にはならない。
現に、心を病んで重い鬱病で入院中の母や、学生の時統合失調症で入院していた息子との日々は、心の病を扱った映画や本だけではわからない。私は支える側ではあるが、経験に勝るものなどないのである。
けれど、私は割とラッキーだと思っている。そう思えるまでは長い長い年月がかかったが、色んな事があったが、「とりあえず今日も死んでねー」からである。大好きなTheピーズの『脳ミソ』という曲の歌詞を引用したが、そういうことだ。
苦しい事があっても、とりあえず今日も私は生きてるし、愛する人たちが、生きていてくれるだけでいいや。
おやすみなさい。