生きる全ての人に。 映画『エンドレス・ポエトリー』
昔何かで見たのだが、泣くと言う行為はストレス解消に役立つので、泣ける映画やドラマを観るのは精神的にも良いとかなんとか・・・。
泣ける映画と言うと、何を思い浮かべるだろうか。
そもそも「泣く」という行為自体は同じでも、悲しくて泣く、嬉しくて泣く、感動して泣く、怖くて泣く、怒って泣く、爆笑で泣くなど内容は様々だ。
私はある映画で号泣した。
何故号泣したのかと言うと、魂が解放された気分がしたからである。
大袈裟と言われるかもだが、映画を観ている間、私はとても自由だった。
全く同じ人間は存在しないように、感じ方も千差万別なので、何も感じない人もいると思う。
前置きが長くなったが、私が号泣したのは『エンドレス・ポエトリー』である。
日本では2017年に上映された、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の映画である。
私は、ホドロフスキー監督の映画がとても好きなのだが、特に『エンドレス・ポエトリー』は、観ていると自分を全肯定してくれるような、全ての事から許されたような、解き放たれたような気持になる。
何処までも自由で、生と死さえも超越した世界に、ハッと息をのんだのだ。
美しさの中にも、毒々しさと生々しさがあり、光と影、美と醜、善と悪は対照的であって実は同じなのかもしれないと錯覚してしまうほどに全てを包み込む。
それは全てを包む完全な光に思える。
生と性、死と詩、親と子、愛と哀。詩を文字ではなく映像で読んでいる気分なのだ。
ホドロフスキー監督の自伝的映画としている本作は、前作では少年期のホドロフスキーを描いた『リアリティのダンス』(2014年)から青年期になったホドロフスキーを描いている。
リアリティのダンスがホドロフスキーの問いであるならその回答が『エンドレス・ポエトリー』のように思う。
そしてホドロフスキーの人生に、現在のホドロフスキーが介入し、ある事実(歴史)を書き換えるシーンがある。これはホドロフスキーが欲しかった過去なのかもしれない。
寺山修司の言葉に「ひとはだれでも実際起こらなかったことも歴史のうちであり、〈過去〉だけでは真実を解きあかすことができない」というのがある。ホドロフスキーは本作で、嘗て叶わなかった父との和解を果たすのである。
人は、後悔をする。しかし過去に戻ることは不可能なのである。
もし映画のように、過去に戻って自分に助言できるならしたい。
でもできないから、自分や相手を責め続けたり、自分のした選択に悔んだりする。
けれどこの映画は、生きている全ての人を肯定する。
後悔を抱える人も、悩みもがき苦しむ人も。
「私は、何があってもあなたを全肯定し続けます」と言われたらどうだろうか。
それを自分に対して言ってくれる人がいるとしたら、それは自分自身なのである。
自分が自分を肯定する、自分が自分を許すことで、後悔や苦しみから解放されていくような気もする。
ホドロフスキーの映画は、いつも刺激をあたえてくれる。
それと同時に、私の心をすくいあげてくれるのだ。
お休みの一曲をあなたと私に。
サニーデイ・サービス『愛し合い 感じ合い 眠り合う』